第29回 相模原市民合同演奏会

J.S.バッハ

「ヨハン・セバスティアン・バッハは、18世紀に活動したドイツの作曲家・器楽演奏家です。特に鍵盤楽器の演奏においては高名で、当時から即興演奏の大家として知られていました。
西洋音楽史上における存在の大きさから、「音楽の父」と称されることもあり、ベートーヴェン、ブラームスとともに「ドイツ三大B」とも呼ばれます。

1685年、現在のドイツ中部に位置する町アイゼナハの町楽士ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれました。9歳の時に母が、10歳の時に父が死去し、ドイツの町オールドルフに住む兄ヨハン・クリストフの家に引き取られます。
1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校に通いました。

1703年にワイマールの宮廷楽団に就職、まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニストになりました。
その後、数多くの教会や宮廷楽団のオルガニストや宮廷楽長を歴任、恵まれた環境の中で数多くの名作を作曲し、聴衆から圧倒的な人気を得るようになりました。

没後はバッハの曲は古臭いものとみなされてしまい、世間から急速に忘れ去られてしまうものの、父と同じ音楽家として育った息子たちや、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンといった音楽家によって受け継がれ、1829年のメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」公演をきっかけにバッハの楽曲は世間から再び脚光を浴び、以降現在まで高く評価されるようになりました。

カンタータ BWV147より コラール「主よ、人の望みの喜びよ」

「主よ、人の望みの喜びよ」は、J.S.バッハのカンタータ147番「心と口と行いと命」の第10曲目の有名なコラールです。
本来は4声部の合唱とオーケストラのための曲ですが、今日ではその流麗なメロディゆえに、ピアノその他いろいろな楽器で演奏されています。また結婚式において厳かにオルガンで奏でられることもあります。

この作品は1723年7月2日の「聖母マリアのエリザベト訪問の祝日」のために作曲したと考えられていますが、その原型ワイマール時代にさかのぼります。
その初期バージョンにはレチタティーヴォは含まれず、冒頭のコラールと4つのアリアで構成されていました。
後にレチタティーヴォと有名な2つのコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を加えて、今日知られるバージョンとなりました。

トッカータとフーガ ニ短調 BWV565(ストコフスキー編)

トッカータとフーガ ニ短調 BWV565は、数多いJ.S.バッハのオルガン曲のなかでも特に人気の高い作品のひとつです。広く知られている強烈な旋律で始まり、オルガンの響きを生かした和音を響かせながら全体的に急速で重厚感があるトッカータ部分と、強弱をつけながら連なり合っていくフーガの2部で構成されています。
本日は、ストコフスキーによるオーケストラ用編曲版を演奏いたします。

レオポルド・ストコフスキー(1882-1977)はイギリス・ロンドンに生まれ、主にアメリカで指揮者として活躍しました。
また、オルガン曲やピアノ曲などをオーケストラ用に編曲する優れた手腕も持ち、数多くのバッハの音楽曲をオーケストラ用に編曲しました。
特にトッカータとフーガはその中でも最も親しまれている曲の一つです。派手なサウンドで豪華絢爛はストコフスキー版バッハは、通常の演奏会ではあまり演奏される機会が多くなかったバッハの音楽を大衆に広く浸透させることに大きく貢献しました。

L.V.ベートーヴェン
交響曲第9番ニ短調 作品125「合唱付き」

ベートーヴェンは1817年に「第九」の下書きに着手しますが、「ミサ・ソレムニス」の作曲で一時中断されました。
再開されたのは1822年で、ロンドン・フィルハーモニー協会からの作曲依頼がきっかけでした。
翌1823年の暮れには第3楽章までが完成していましたが、「初演はロンドンで行う」との噂が広まり、これに対して当時ベートーヴェンが活躍していたウィーンの貴族や音楽家たちは、一大事とばかりウィーンでの初演を求める請願書を1824年2月の新聞に掲載しました。
これによって、「第九」交響曲は1824年5月7日に無事(?)ウィーンのケルントナートール劇場(現在はなく、跡地にホテル・ザッハーが立っています)にて初演されることになりました。

この曲は「第九」とか「合唱付き」などと呼ばれていますが、この曲がベートーヴェン最後の交響曲となり、第10番の構想こそあったものの世に出ることはありませんでした。
以降この「9」という数字が一部の作曲家の凶数となってしまいます。ベートーヴェンの他に、ドヴォルザーク、ブルックナー、ヴォーン・ウィリアムズが9番目の交響曲を作った後に亡くなっています。

グスタフ・マーラーが第9番という数字を嫌っていたという話は有名です。尊敬するベートーヴェンやブルックナーが交響曲を「第9番」までしか書けずに亡くなっていることに不安を感じたマーラーは、完成した9番目の交響曲にはあえて番号を付けずに、交響曲「大地の歌(Das Lied von der Erde)」という名にしたのです。しかし、結局は次に作った10番目の交響曲に「第9番」の番号を付けましたが、続けて作り始めた「第10番」は未完のままマーラーは亡くなってしまったため、奇しくも「第9番」がマーラーの完成した最後の交響曲となってしまいました。

もう一人この凶数を嫌った作曲家がいました。シベリウスです。彼は、交響曲第8番を完成させた後、9番の作曲に手を付けることができませんでした。その上あろうことか既に完成していた交響曲第8番の楽譜も燃やしてしまったのでした。
その後、シベリウスは交響曲の作曲をすることはありませんでした。
そのおかげかどうか分かりませんが、シベリウスは、91年の天寿をまっとうすることが出来たのでした。

少し意味は違いますが、ショスタコーヴィチもこの「第九」を避けたと言われています。
ベートーヴェン以来、ブルックナー、マーラーなど偉大な作品が連なる「9番」という番号の重圧をかわすかのように、7番、8番と続いた壮麗な交響曲のあとに発表された「第九」は、前2作とはかけ離れた軽妙洒脱な作品でした。
ベートーヴェンのような壮大な曲を望んでいた政府関係者は、見事に肩透かしをくらわされました。これを機にショスタコーヴィチは前衛芸術批判の対象とされてしまうことになります。

ちなみに、「第九」交響曲の初版楽譜の表紙には、

シラーの頌歌「歓喜に寄す」による終結合唱を持つ、大管弦楽および四声の独唱と四声の合唱のために作曲され、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世陛下に最も深い畏敬の念を持って、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにより献呈された交響曲、作品125
(Sinfonie mit Schluß-Chor über Schillers Ode “ An die Freude ” für großes Orchester, 4 Solo- und 4 Chor-stimmen componirt und seiner Majest ät dem König von Preussen Friedrich Wilhelm III in tiefster Ehrfrucht Zugeeignet von Ludwig van Beethoven, 125 tes Werk)

と記述されており、どこにも「交響曲第9番」とは書かれていませんでした。

この時代の交響曲は、第1楽章:ソナタ形式、第2楽章:緩徐楽章、第3楽章:メヌエットまたはスケルツォ(舞曲)、第4楽章:ソナタ形式またはロンド形式という古典派によって完成された形式が主流でしたが、「第九」では、第2楽章と第3楽章が入れ替わり、第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章を配置しています。
このような形式は初期のハイドンには見られるものですが、以後は第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット(舞曲)という形式が一般的になりました。
再び古い形式がベートーヴェンによって取り上げられて以後、多くの作曲家がこの形式でも交響曲を作るようになりました。
また、声楽を伴う交響曲も「第九」が先駆となって以後、多くの作曲家が作るようになりました。

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