第30回記念 定期演奏会

ラヴェル

30th定期パンフレットラヴェル(Joseph-Maurice Ravel、1883-1937)は、フランス南西部、スペインにほど近いバスク地方のシブールで生まれました。音楽好きの父の影響で、7歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学びます。
両親がラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、パリ音楽院へ進学。音楽院に在籍した14年の間、ガブリエル・フォーレらの下で学んだラヴェルは、多くの若く革新的な芸術家と行動を共にし、影響を受けました。

1898年、国民音楽協会第266回演奏会での作曲家公式デビューの前から既に「古風なメヌエット」「水の戯れ」などの作品を発表。
当時保守的であったフランス音楽会の中でも確固とした書法と独自性をもっていたラヴェルはその後も「スペイン狂詩曲」(1908)、「マ・メール・ロア」(1911)、バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(1912)、「ボレロ」(1928)など、現在でも聴き継がれる名曲を多く書き上げました。

亡き王女のためのパヴァーヌ

「亡き王女のためのパヴァーヌ」は1899年にピアノ曲として作曲された後、1910年にラヴェル自信によって管弦楽用に編曲されました。
ピアノ曲はパリ音楽院在学中に作曲した初期を代表する傑作で、ラヴェルの代表曲の一つです。
諸説ありますが、ラヴェルがルーヴル美術館を訪れた時にあった、17世紀スペインの宮廷画家ベラスケスが描いたマルガリータ王女の肖像画から着想を得て作曲した、という説もあります。
ラヴェルによるとこの題名は「亡くなった王女の為の葬送の哀歌」ではなく、「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ(16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していたダンスで、2拍子のゆったりとしたリズムにのせて、男女のペアが列をなして優雅に踊る)」だとしています。

この古風な曲は、歴史上の特定の王女に捧げて作られたものではなく、スペインにおける風習や情緒に対する郷愁を表現したものであり、こうした表現はラヴェルによる他の作品(例えば「スペイン狂詩曲」や「ボレロ」)や、あるいはドビュッシーなどの同年代の作曲家の作品にも見られます。

管弦楽版とピアノ版との曲の構成自体は同じです。
弦楽器のピッチカートに乗るホルンに寄るソロで始まり、ロ短調に転調してオーボエによる新たなメロディが出現します。
1度目の再現では主旋律が木管楽器に移り、冒頭よりも更に穏やかな印象となります。
ト短調になり、可憐ながらも不安定な感じがフルートで奏でられると、後半ではハープのグリッサンドや高音域でより効果的に表現されています。
ト短調で弱々しく終わった後の2度目の再現では、ハープの分散和音に乗ってフルートとヴァイオリンで旋律が奏され、最後は最弱音で消え入るように終わります。

高雅で感傷的なワルツ

「高雅で感傷的なワルツ」は1911年、ラヴェルがシューベルトの「34の感傷的なワルツ」と「12の高貴なワルツ」から曲想を得て、ピアノ曲のワルツ集として作曲しました。
管弦楽版は翌1912年、ロシアのバレリーナ・トルハノフからの依頼を受け、バレエ「アデライド・または花言葉」用の楽曲として、依頼からわずか2週間で作曲されました。
バレエは、ヒロインのアデライドが金持ちの公爵とロマンティックな青年ロレダンの2人から求愛され、花をやり取りするという、王政復古期の男女の恋物語です。

それぞれに違う表情を見せる7番目までのワルツとそれらの回想を含む8番目のエピローグで構成されていますが、ほとんど間なく続けて演奏されます。
ワルツの単純、素朴な特徴を表す一方で、斬新な和声が用いられるなど、ラヴェルらしい表現が描かれています。

  • 美女アデライドの誕生日、客間で舞踏会が始まる(第1曲)
  • 舞踏会に彼女を慕うメランコリックな青年ロレダンが登場し、花にたくした花言葉で愛を訴える(第2曲)
  • 花言葉には気づかず、雛菊の花びらをむしって花占いをするアデライドに意気消沈するロレダン(第3曲)
  • 和解して二人が踊っているところに富豪の公爵があらわれ、アデライドは踊りをやめてしまう(第4曲)
  • 女の気を富で引こうとする公爵(第5曲)
  • 絶望しながらも追いすがるロレダンを、アデライドは婀娜(あだ)っぽく押し返す(第6曲)
  • しかし結局は公爵がせがむのを断り、アデライドはロレダンと最後の円舞曲を踊る(第7曲)
  • 客たちが帰っていく中、公爵も未練気がましく舞踏会を後にする。
    ロレダンは、花で示すアデライドの慰めを拒み、一度は去るものの、戻ってきて彼女の足元に身を投げかけ、ピストルを自分のこめかみに近づける。
    アデライドは微笑んで、赤い薔薇の花を胸からとり、それを落としてロレダンの腕に抱かれる(第8曲・エピローグ)

ショスタコーヴィチ

ショスタコーヴィチ(Dmitri Dmitrievich Shostakovich、1906-1975)はロシア帝国の首都・サンクトペテルブルクに生まれました。
9歳の時に初めてオペラを鑑賞、同じ年には母親からピアノの手ほどきを受け、作曲も始めるようになります。
1919年ペテルブルク音楽院に入学、作曲とピアノを専攻しました。
1925年に、同音楽院作曲家の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目され、1920年代後半から1930年代前半にかけては、ベルクやミヨーなど西欧の革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲。特にピアノ協奏曲第1番ではジャズに触発された音楽を取り入れるなど、影響を受けました。

しかし、当時のソビエト共産党による厳しい社会統制が敷かれる中で、1936年に発表した歌劇とバレエがソビエト共産党の機関紙から批判を受け、自己批判を余儀なくされてしまいます。
批判以後作曲された交響曲第5番以降、ショスタコーヴィチの作品は社会主義路線に見合う作風への変換を余儀なくされました。

1950年代に入って統制が解除されると、それまで封印していた楽曲も含めて次々に発表、1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作を多数残しました。

交響曲第5番二短調 作品47「革命」

「交響曲第5番」は、第2番や第3番のような単一楽章形式で声楽を含む新古典風の交響曲や、マーラーの交響曲を意識した巨大で複雑な第4番などに見られるような先進的で前衛的な複雑な音楽とは一線を画し、古典的な単純明瞭な構成が特徴となっています。
ロシア革命から20周年という「記念すべき」年に初演され、またこの曲は社会主義リアリズムを外見上は見事に表現していたため、熱烈な歓迎を受けました。
交響曲第5番の発表以後徐々に、ショスタコーヴィチは名誉を回復していくことになります

第1楽章:Moderato - Allegro non troppo
強烈な印象を残す劇的で悲壮なテーマのカノンで始まります。
ヴァイオリンに下降音形の第1主題が静かに現れ、その後トランペットが鳴り響く頂点に向かい発展し、次いで歌謡的な第2主題が同じくヴァイオリンに現れます。
ピアノと低弦の不気味な足音から展開部に入り、第1主題の行進曲を経て再現部に突入、全合奏の圧倒的なクライマックスにたどり着きます。
第2主題がフルートとホルンによりニ長調で静かに再現され、その先の幸福が予感されますが再び曲調は暗くなり、冒頭のメロディが流れる中、チェレスタがかすかな希望を奏でつつ楽章を閉じます。
第2楽章:Allegretto
ショスタコーヴィチが得意としていたスケルツォですが、この曲では特に自然で親しみやすい旋律が溢れています。
迫力のある低弦の導入のあと、Esクラリネットがとても軽快な第1主題を奏でたかと思うと、一転して華麗な南ドイツのレントラー風の舞曲が流れます。
中間部のトリオでは、ヴァイオリンとフルートのソロが優美でコミカルなメロディを繰り返します。
第3楽章:Largo
弦楽器が全体で8部に分けられ室内楽的な響きを作り出します。
冒頭は弦楽器と、その後ハープの伴奏をともなったフルートによって、より内省的な旋律が奏でられます。
弦楽器のトレモロの中、各木管楽器のモノローグが続きます。
シロフォンとピアノを加えた大きな頂点となり、チェロの悲痛な叫びの後、次第に曲は落ち着き最初のテーマが再現され、最後にハープとチェレスタを重ねた独特の音色の旋律で終わります。
作曲者はこの第3楽章に一番満足していると述べています。
第4楽章:Allegro non troppo
冒頭、管楽器のトリルとティンパニのトレモロを主体にしたクレッシェンドに続き、行進曲調のリズムの上で金管楽器が印象的な主題を奏します。
ヴァイオリンの印象的な動きから主調に回帰し、小太鼓のリズムに乗って、弱音で冒頭主題が回想されます。
徐々に膨れ上がり、シンバルやトライアングル、スネアなど各種打楽器も加わり、二長調に転じた後、ティンパニとバスドラムが叩くリズムの上で全楽器が主和音を強奏して力強く締めくくります。
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