第27回 相模原市民合同演奏会

ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」より 前奏曲と愛の死

27th合同パンフレットヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)は、ドイツのライプツィヒ生まれ。幼児期より音楽に親しみ、一家とも親交があった作曲家ウェーバーには特に強い影響を受けました。
15歳のころベートーヴェンの作品に感銘を受け音楽家を志すと同時に劇作にも関心を持つようになり、のちにワーグナー独自の斬新で美しく壮大なオペラを生み出す原動力ともなりました。

「トリスタンとイゾルデ」を制作する数年前の1854年ころ、ワーグナーは妻ミンナとの結婚生活がうまくいかないことに悩み続けていました。このため、作品の中に愛情を演出するような劇を作ろうと考えたのかもしれません。
1857年に台本が完成したころ、ワーグナーは制作地チューリッヒで人妻マティルデへ思いを募らせており、この愛情を詩作に深く注ぎ込んだとされていますが、なし得ぬ恋への苦悩の感情がこの傑作の基礎になったとも考えられています。

原作は中世ドイツの詩人ゴットフリート・フォン・シュトラースブルグが古代アイルランドのケルト伝説を基に書いた叙事詩「トリスタンとイゾルデ」ですが、ワーグナーはこの作品から題材を得ただけであって、歌劇自体はワーグナーによる全くの創作であるといえます。

この曲の特徴として、織物の糸が次々と絡まっていくように休みなく続き成長しながら溶け合っていくような無限旋律と、半音階の異名同音のおびただしい使用があります。
特に後者は「トリスタン音階」と呼ばれ、主人公たちの遂げられざる愛の無限の憧憬などを表現するのに絶大な効果を上げています。

舞台は中世。コーンウォール国の騎士トリスタンが叔父であるマルケ王のために、アイルランドの王女イゾルデを王の妃として迎えて帰る船の中。トリスタンとイゾルデが誤って愛の薬を飲み、2人は愛し合うようになってしまいます。
コーンウォール到着後も隠れて密会を重ねますが、やがてマルケ王のもとに明らかにされてしまい、2人は愛に殉じて死を選ぶ
、という筋書きです。
ワーグナーの作品の中でも珍しく「神」の存在が出てこない作品です。

前奏曲

トリスタンとイゾルデの愛の内面的進展を音楽により表現したもので、ワーグナー自身がこの曲に対して次のような「標題」を与えています。

「トリスタン自ら結婚仲人としてイゾルデを叔父の元へ連れていく。実は2人は愛し合っている。
静めることのできない欲望の最も控えめな訴えに始まり、望みのない愛の告白の極めて繊細なおののきからこのような愛の最も恐ろしい爆発に至るまで、内なる灼熱に対する無益な戦いのあらゆる段階の感情が貫いている。
そしてこの感情は、気を失って己の中に沈んでしまい、死の中に消え去るほかないようになる。」

曲頭、チェロとオーボエで表されるトリスタンの憧れの動機は、オペラ全体を通じても最も重要な動機で、その半音階的進行は、主人公の2人に内在する愛の憧れを物語っています。
やがてこの愛が高まっていき、チェロが奏でる「愛の動機」となります。
この2つの動機が前奏曲全編にわたる2大動機となり、他の楽器に強調されながら歌い継がれていくものの、所詮は満たされえない悲恋になるより他のない運命を示唆するかのように、愛の高揚も「次第に速度を抑え気味に」という指示により、元の静けさへと戻ってきます。

イゾルデの愛の死

第3幕第3場、傷を負って先に息を引き取ったトリスタンの傍らで、イゾルデがトリスタンを思いながら歌う終曲です。
前奏曲と並ぶ有名曲で、今回のように2曲合わせて演奏されることも多いです。

この歌に入る前に台本には次のようなト書きがあります。

「イゾルデは、周囲の一切が耳に入らず、感激をましながら、目をじぃっとトリスタンの遺体に据える。

歌の冒頭、「優しく、静かに」と歌う愛の死の動機は、ひとえに愛にのみ生きるための死を意味していて、第2幕で登場した旋律を第3幕でも繰り返しています。
イゾルデのトリスタンへの思いとともに、愛を浄化していくようなクラリネットやオーボエによるドルチェの甘い旋律が流れ、やがて他の楽器にも引き継がれていきます。

イゾルデの想いが最高潮に達すると、愛の恍惚を表す旋律をヴァイオリン、木管やホルンがアクセントの強弱を巧みに使って示唆しますが、イゾルデの死を表すかのようにやがて下降音形で静まっていき、曲は幕を閉じます。

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 作品125

ベートーヴェン最後の交響曲である「第九」は、1824年5月7日にウィーンの通称ケルントナートール劇場にて初演が行われ、大喝采を博しました。大喝采は第2楽章あとにも、終楽章のあとにも起こったということです。
ベートーヴェンはそれが聞こえず、舞台上で聴衆に背を向けたまま総譜に見入っていたので、アルトを歌ったウンガー(一説にはソプラノのゾンターク)が彼の肩を取り、聴衆のほうに向きを変えさせたと伝えられています。

ところが、初演後の5月23日の再演のときには会場の半分も埋まらなかったのです。
それにはいろいろな事情があったようですが、最大の理由は初演の日の聴衆に与えた印象が弱かった、要するに不評だったということでした。それが口コミによって好楽家の間に拡がったようです。
当時の批評家たちに問題とされたのは、交響曲の終楽章に声楽曲を持ってきたことでした。ベートーヴェン自身もそれを認めていたようで、親しい友人に器楽だけの終楽章に作り変えたいと語ったということです。
結局「第九」は初演のときのままの形で残されましたが、ウィーンでは彼の生存中にはもう演奏されることはなかったのです。

のちにこの曲の真価を見出したのはアブネックというフランス人でした。
彼が「第九」のパリ初演を行ったのは1831年のことですが、実に練習に3年を費やしたということです。
その演奏会自体は決して成功ではなかったようで、その翌年には第1楽章と第2楽章および第3楽章と終楽章との間に、全然関係ない小品を演奏してインターバルをとったということです。今日の我々には全く想像もつかないことです。
しかし、彼はその後も熱心に曲を研究し、演奏を続け、1839年には演奏会は7回を数えるようになりました。その間には1839年にはワーグナー、1834年にはベルリオーズといった大作曲家が彼の「第九」を聞いて大きな影響を受けたということです。
ただし、ワーグナーが最初に聞いたときには第3楽章までしか演奏されなかったようですし、ベルリオーズが聞いた演奏会でも第3楽章までは絶賛を博したが、終楽章だけは「大半の人に理解されなかった」ようです。

ところで、合唱を伴う交響曲は第九で初めて考えられたのではなかったようです。
交響曲第6番「田園」には当初、終楽章を神への感謝の合唱曲とするプランがあったこと、すでに着手していた9番目の“ニ短調の”交響曲(のちに作曲を放棄、今日聴かれる「第九」とは別の曲)につづく「第十」交響曲に合唱を導入するつもりであったことが知られています。

実は「第九」も最初は、器楽のみによる交響曲として構想されていたのでした。1817年に「第九」として知られているニ短調の楽曲の下書きに着手しますが、ほどなく宗教音楽の大作「ミサ・ソレムニス」に時間をさかねばならなくなったため、中断されてしまいました。
その後、ロンドン・フィルハーモニー協会からの作曲依頼がきっかけとなって、「第九」の作曲は1822年に再開され、翌23年の暮れには第3楽章までが完成しました。
終楽章をどのようなものにするかは最後まで迷っていましたが、最終的には、「第十」に使うつもりだったシラー 頌詩による合唱のついたオーケストラ曲をそれに転用することを決意し、ベートーヴェン最後の交響曲は1824年に完成をみたのです。

第1楽章
アレグロ マ ノン トロッポ エ ウン ポコ マエストーソ ニ短調 2/4拍子
この楽章は、ロマン派への誘いであったといえます。まるでブルックナーの交響曲のような、宇宙の始まりを思わせる音楽は、新しい時代の音楽の始まりを予感させます。
彼の後期のピアノ・ソナタなどで方向性を模索した斬新な取り組みがこの楽章で昇華したということでしょう。
第2楽章
モルト ビバーチェ ニ短調 3/4拍子
ティンパニのソロが印象的な楽章ですが、やはり初演の時にも、中間部でティンパニがタン・タ・タンのリズムを3小節おきにたたくところで「第2楽章が、1度は拍手で聞こえなくなった」そうです。
第3楽章
アダージョ モルト エ カンタービレ 変ロ長調 4/4拍子
ベートーヴェンが作曲した究極の「歌」であるといっても過言ではない美しく崇高な音楽がここにはあります。単純な「バリエーション(変奏曲)」の持つ純粋さは、この楽章だけでも聞いてみたいと思わせます。
このオーケストレーションで、この構成でしか存在しえないということがベートーヴェンの作品では多いのですが、この楽章はその究極の形であるといえます。
第4楽章
フィナーレ; プレスト~アレグロ アッサイ ニ短調 3/4拍子
独唱および合唱を伴う楽章ではありますが、声楽曲というよりはむしろ、器楽曲として声を扱っているように思われます。
あまり声楽曲を作ることが得意ではなかったといわれるベートーヴェンです。彼にとっては人の声も楽器のひとつだったのでしょうか。
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