第25回 相模原市民合同演奏会

ジャン・シベリウス (1865-1957)

25th合同パンフレットジャン・シベリウスは北欧フィンランドを代表する作曲家です。
医師の父の元に生まれましたが、姉や弟もそれぞれピアノとチェロを演奏する音楽一家に育ちました。

1885年ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始め、1889年にはベルリンへ留学。1899年に「愛国記念劇」の音楽を発表、この曲の7曲目が改作されて、「交響詩フィンランディア」として独立、現在でも人気を博しています。

また、母国の冷たくも澄んだ空気や大自然、そして民族的な情感が色濃く反映されているといわれ、7つの交響曲やいくつかの交響詩、また自らのヴァイオリニストとしての才能を生かしたヴァイオリン協奏曲など人気の高い作品も数多く作曲しています。

本日演奏する「カレリア」とは、スカンジナビア半島とロシアを結ぶカレリア海峡のことで、フィンランド人の先祖の一族にあたるカレリア人が住んでいたといわれています。
1893年、シベリウスが28歳の時に、カレリア地方にあるヴィープリ市の学生協会から依頼され、この地方の13~19世紀までの歴史による7つのシーン、全9曲から成り立つ野外劇の付随音楽を作曲しました。
しかし、シベリウスはこの作品が上演されたわずか数日後にはこの付随音楽をもとに演奏会用の8曲からなる組曲に改編、またさらにそこから序曲と3曲からなる組曲へと改編しました。
これが現在の「カレリア」序曲と「カレリア」組曲です。

「カレリア」序曲

野外劇から改編されるときに残されたものの、組曲の人気に隠れてか、残念ながら演奏される機会はあまり多くありません。
しかし、歴史に翻弄されたカレリア地方の人々の姿や情景が色濃く描かれている作品となっています。
途中、組曲インテルメッツォの行進曲の主題も出てきます。

「カレリア」組曲

インテルメッツォ
野外劇の中では第3景、リトアニアの王女ナリモントがカレリアの住民から税を徴収した時代の場面で奏でられた、古いスタイルのゆったりとした行進曲です。
ティンパニと弦楽器との弱音から始まり、その上に遠くから聞こえてくるかのようなホルンの主題がでてきます。
次第に楽器の数が増していき頂点に達した後、最後はもう一度始めの部分が繰り返され静かに終わります。
バラード
劇では第4景、ヴィープリ城の中で、カール・クヌトソン王と従者を前に吟遊詩人が歌う場面で使われています。
クラリネットの民謡風の旋律から始まる、素朴で抒情的な曲です。
木管、弦楽器が哀愁の漂う、次々と変容する旋律を奏でた後、イングリッシュホルンが美しいソロを奏でます。
最後はオーボエが主題を寂しげに奏で、この曲は幕を閉じます。
行進曲風に
劇の第5景、1580年ごろの情景で演奏される音楽で、2つの主題からなる単純な行進曲です。
弦楽器、管楽器が次々と行進曲風の旋律を奏し、曲をだんだん高揚させていきます。フィンランド農民たちの楽しい踊りを思わせるような明るく軽快な曲です。
この曲はしばしば独立して演奏されるので、この組曲の中でも最もよく知られています。

ヘンデル:オラトリオ「メサイア」

「メサイア」が作曲されるまで

1685年、ヨハン・セバスティアン・バッハが生まれたのと同じ年に、「メサイア」の作曲者であるゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルは、ドイツのハレにおいて、医者の父と牧師の娘である母の間に生まれました。
幼い頃から音楽の才能を発揮したヘンデルですが、父親が音楽家になるのを反対したため、法律家になるべく勉強をしました。
法律を学ぶための大学へも入学したのですが、音楽への情熱は抑えられることはなく、父の死後まもなくハンブルグで音楽活動を始めることになったのです。

その後、イタリアのフィレンツェ、ナポリなど各地を転々とし、多くの音楽と出会ったことは彼自身の音楽に大きな影響を与えました。
イタリアにおいて、彼はオペラの作曲に取り組み、その音楽様式を身につけました。
その後、ヘンデルは25歳の時ロンドンへと渡り、作曲生活を送り、のちイギリスに帰化することになるのです。

ヘンデルが訪れた頃のイギリスは、宮廷音楽が衰え、劇場音楽へと移行している頃でした。
ヘンデルはオペラの創作に熱中し、ロンドンに劇場まで作って、その運営の中心となるなど、音楽事業にも意欲的に取り組みました。

イギリスでのヘンデルの活躍は順風満帆であるように思われましたが、彼が50歳になる頃、イギリスでは聴衆がブルジョア趣味的なイタリア・オペラに飽きを感じ始め、華々しい活躍も長くは続きませんでした。
そこでヘンデルはこのような風潮の変化に伴って、新しいスタイルの音楽に挑戦し始めたのです。
それがイギリス独特の音楽形式であるオラトリオです。

オラトリオとは、一言で言うならば「宗教的な主題を持ったオペラ」。
テーマが聖書の内容に基づいていること、役を与えられた歌手が演技をしないこと以外はオペラと同じで、当時聖書への理解がまだ薄かった中流階級に理解を深めてもらうため考え出されたものでした。

1741年、ヘンデルはアイルランドの総督から、慈善演奏会用のオラトリオの作曲を依頼されました。ヘンデルはこの申し出を受け、友人チャールズ・ジェネンズにそのテキストを依頼しました。
深い聖書への理解なくしては書けない素晴らしい「救世主」の物語「メサイア」の台本は、当時窮地に陥っていたヘンデルの意欲をかきたてました。
ヘンデルは作曲に没頭し、時にはその敬虔さに涙を流しながら作曲したという逸話も残っています。
わずか24日間にして書き上げられたオラトリオ「メサイア」は、約1年後にアイルランド・ダブリンで初演され大評判となり、ヘンデルの名を大きく知らしめることになったのです。

「メサイア」の構成・解説

「メサイア」は3部構成になっています。

  • 第1部は、暗闇からの救世主による救済の予言と、キリストの降誕までが書かれています。
    オラトリオは宗教的なオペラだと言いましたが、メサイアには具体的な役を振り当てられた登場人物もなく、キリストの生涯を語ったという物語でもないところがやや特殊なオラトリオといえます。
    第1部は「闇」と「光」の対比が非常に印象的です。
  • 第2部はキリストの受難、贖罪(しょくざい)と復活が描かれています。
    あの有名な「ハレルヤ・コーラス」はイエス誕生や復活の場面ではなく、第2部の終わり、十字架上でイエスが息を引き取ったところで歌われるという点が意外だと思います。
    しかしながら、イエス・キリストの十字架上の死により我々が神の救済を受けることができるのだというヘンデルの深い信仰による心からの賛美の現われだと解釈することもできるのです。
  • 第3部はキリストを信じるものの復活の約束が語られ、最後の審判を告げるラッパが鳴り響きます。
    そして信仰告白となり、メサイア全曲の最後に置かれた「アーメン・コーラス」は全曲を通して語られてきた救世主の業を高らかに賞賛するのです。

序文

また、あまり目にすることはないのですが、オラトリオ「メサイア」には『序文』がつけられています。

「いざ、大いなることを歌おう。
偉大なのがこの信仰の奥義であることは、議論の余地もありません。
主は肉体としてこの世に現われ、聖霊によって義とされ、天使たちに見守られ、諸国民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、そして栄光のうちに天上へと召されました。
この主の中に、知恵と知識の財宝が秘められているのです。」

この文言は、ダブリンで初演された際のプログラムの表紙に載り、その後もヘンデルの演奏会では必ずプログラムに載せられていたようです。
この言葉も聖書からの引用ですが、この短い言葉の中に「メサイア」全曲のうたおうとすることが集約されているといわれています。

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