第23回 定期演奏会

モーツァルト:歌劇「後宮からの逃走」 序曲

1781年の春、ザルツブルグの大司教はウィーンに来ていました。
時を同じくして、モーツァルトは司教の下で社交用の音楽係として働いていましたが、横暴な司教にうんざり、ついに言い合いになり放り出されることになってしまいます。

しかし、かねてより「何かオペラをヒットさせて、自分の作曲家としての才能を世間に認めさせてやる!」と考えていたモーツァルト。運良く既に彼の台本作家もいて、当時ゲルマン化政策を推し進めていた皇帝ヨーゼフ2世が、ドイツ語オペラを振興したいと考えていたこともあって上演のチャンスを与えてくれることになりました。

モーツァルトにとっては絶好のチャンス!
しかも彼自身もどの国にも独自のオペラがあるのに、なぜドイツにはないのでしょう? ドイツ語だってフランス語や英語と同じくらい歌いやすくないでしょうか?と思っていたのです(1783年の手紙より)。

その後モーツァルトは手に入れた台本(当時流行のトルコもので、太守のハーレムに軟禁された恋人を救出しようとする男の話)を大変気に入り、水を得た魚のように机にかじりついて作曲、そしてついに1782年7月16日初演の日を迎えることができたのです。

誰でも一度聞いたら忘れられないプレストのテーマをヴァイオリンとチェロが奏で始める…それはすぐに全楽器で繰り返されます。その効果の華やかなこと! 大太鼓、トライアングル、シンバルなどのトルコ軍隊風の打楽器まで引き連れて、モーツァルトの音楽最大の構成で賑やかに繰り広げられる、めくるめく速さの音の洪水。

やがて、曲は一転してハ長調から、ハ短調のアンダンテへ。
これは劇中第一曲(ベルモンテのアリア)からの引用。憂いを含んで救出の不安を暗示しています。
34小節で再び曲は一転してプレストへ、そして華やかに結びつつオペラの幕開け!

初演は大成功。そしてその後も繰り返し上演されました。
この作品はモーツァルトの生前にウィーンで上演されたオペラの中では最高のヒットとなり、そしてそれ以降、ドイツオペラの先駆的作品になっていったのです。

(Perc:T.I)

ハチャトリアン:組曲「仮面舞踏会」

昨年11月末、黒海の東に位置するグルジア共和国で生じたクーデターをご記憶の方はいらっしゃるだろうか。

1991年のソヴィエト連邦からの独立以来、一向に好転しない経済事情、そして何よりも政治不信から国民の不満は爆発し、遂には野党の主導の下に生じたクーデターにより、シュワルナゼ大統領は退陣に追い込まれている。

北に大国ロシア、南にイラン、トルコに挟まれたグルジアは、常に政治の狭間を揺れ動いてきた。

15世紀から18世紀にかけてイラン、トルコといったイスラム諸国の圧政に苦しみ、その後、南下してきたロシアの支配に組込まれ、1920年代には共産主義革命を経験しソヴィエト連邦の支配に組込まれる。そして今回のクーデター…。

しかし、このような動乱を絶えず経験してきたにもかかわらず、グルジアは独自の洗練された音楽を持ち、さらに、ヨーロッパ中心部の音楽の受容にも積極的であった。
1880年代にこの国を幾度となく訪れたチャイコフスキーも、自分の交響曲や室内楽が演奏され、彼自身も大作曲家として歓迎されたことを大変満足げに書き留めている。

現在でも都市部ではおばあさんが奏でるピアノに孫が踊り、家族全員が歌う革命以前の生活習慣が未だに生きているし、他方、農村地帯では10世紀ころからの非常に古典的な様式のポリフォニー(多声部音楽)の伝統が、他国の支配を潜り抜け今でも残っている。

揺れ動く政治の狭間で、グルジアの人々は豊かな生活を確保し、決して人間的な誇りを失う様子はない。
それは、国民の90%以上が大学教育を受けるという知性を尊重する伝統によって支えられているが、その伝統の中心に彼らの独自な音楽的伝統が位置付いている。

そのグルジアの首都トビリシで、1903年、アラム・ハチャトリアンはアルメニア人の両親のもとに生まれた。
(奇しくもというべきだろうか、本日の演奏会と同じ6月6日に生まれている)

当時、トビリシはグルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人といった多様な民族が入り混じって暮らしており、各地の音楽文化が交差する場所であった。
ハチャトリアンは当時の様子を次のように述べている。

「この町の生活は、モスクワやレニングラードなどの北方の町と比べてずっと開放的だった。音があちこちに響き渡り、町は音楽で溢れていた。
アルメニアの歌やグルジアの民謡、お屋敷お抱えの民族楽士のアンサンブルや柿売りの呼び声…。そういったものが幼いころの私をとりまいた音の響きだった…。」

1921年、グルジアに共産主義政権が誕生し、翌年ソヴィエト連邦に加入。
当時19歳だったハチャトリアンはこの年にモスクワのグネーシン音楽学校に入学し、さらに29年からはかつて帝政時代にチャイコフスキーも教官に就いたモスクワ音楽院で作曲を学んでいる。

ソヴィエト連邦という新しい社会体制の枠内で、彼はグルジアやアルメニアといったコーカサス地方の音楽的伝統を、西洋的な作曲技法の中で展開していく手法を身につけることになった。

ハチャトリアンの音楽といえば、まず誰もが思い浮かべるのは「剣の舞」などで知られるバレエ音楽『ガイーヌ』ではないだろうか。

この曲の持つ筋肉質なまでの躍動感は、民族舞踊のリズミカルな動作を見事に描写しているとともに、音楽そのものによって人間内面的な世界を表現することに成功している点に由来する。

特に、この音楽による人物描写という手法は、ハチャトリアンのもう一つの活動領域である劇場音楽でも如才無く発揮されているが、その最も成功した劇場音楽が本日演奏される『仮面舞踏会』である。

ハチャトリアンは演劇への熱い思いを青年時代から常に持ち続けていた。

「もし音楽が私の思いを満たさなければ、私は俳優になったといえるほどだった。」

彼の演劇向け劇場音楽は1940年から50年代にかけて現れ、その数は20以上にものぼり、コメディーや心理サスペンス、古典的悲劇などジャンルも多彩である。

『仮面舞踏会』はロシアの作家レールモントフが書いた同名のドラマのために作曲され、その音楽から5曲を抜粋して組曲が作られた。
ドラマの舞台は帝政ロシア。ある貴族の夫が嫉妬にかられ、妻を殺してしまうという悲劇である。

  • 組曲第1曲ワルツは舞踏会の光景をほうふつとさせる音楽であるが、どこか憂愁をおびた曲調が、これから起きる悲劇を暗示しているようである。
  • 第2曲夜想曲では弦楽器によるピッチカートの下降音形とホルンの和音で夜の静けさを表すうちにヴァイオリン・ソロによる「夜の歌」が奏でられる。
  • 第3曲マズルカ。マズルカは19世紀にヨーロッパの主要都市で流行した舞曲であるが、ハチャトリアンのマズルカにはどこか野性的な肉体の動きそのものを感じることができる。
  • 第4曲ロマンスでは、ヴィオラの分散和音によってどこか揺れ動く心の中、ヴァイオリンによる繊細で叙情的なロマンスが歌われる。この旋律はヴィオラ、チェロによって激しく渦巻くが、一転してクラリネットに歌われる透き通るような心も映し出される。
  • 第5曲はギャロップ。ギャロップはドイツ起源の、これもまた19世紀に流行した舞曲。ヒステリックなまでに強烈なリズムとオーケストレーションは、身体全体の鼓動が聞こえてくるような躍動感に満ちている。

(Va:M.S)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

この作品は、チャイコフスキーが彼の全生涯をかけた意欲的な内容のもので、その作曲中に彼の心の中を去来した極めて個人的な感情の烈しい起伏が感じられ、フォルテやピアノを4つも5つも重ねることで心理的な振幅の大きさを表現している。

尚、標題の「悲愴」は本人指揮による初演後、弟モデストと相談後付けられたもので、ロシア語の「パテティック」という言葉は日本語の<悲愴>のニュアンスとは異なり、<熱情><心を強く揺り動かす感情>という意味がある。

第1楽章
ファゴット、コントラバスによる陰鬱な序奏から始まるソナタ形式の楽章。
不安な感情に満ちた第1主題と、感傷的な第2主題がコントラストをなしアレグロ・ヴィーヴォでのドラマティックな展開部はロシア聖歌も引用されている。
第2楽章
コン・グラツィア(優雅に)という指示にも関わらず、スラヴ特有の5拍子(2+3)のアレグロ舞曲が示すものは、内なる不安と情緒である。
中間部の主題はエストニア民謡の引用といわれている。
第3楽章
急速なタランティラ舞曲風のスケルツォと、勇壮なマーチを結合させた祭典的な楽章。
その華やかさは続く終楽章の悲劇をいっそう引き立てている。
第4楽章
慟哭の調べの第1主題と、生を懐かしく回顧する第2主題をもつ、悲痛な感情に満ちたフィナーレ。
死を暗示するタムタムが響き、最後は息絶えるように静かに閉じられる。

エピソード ~「悲愴」と隠された死因~

彼の最後の傑作といわれる交響曲「悲愴」には、いくつかの伝説的なエピソードが残されており、その中でも最大のものが初演直後の謎の死因である。

  1. コレラ説

    1893年10月28日。チャイコフスキー本人の指揮による初演が行われ、その4日後の11月1日、ホテルで会食中に生水を飲む。
    折からのコレラ流行の中で弟の注意をふりきって飲んだとさえいわれ、その行為は自らの運命を意識的に我が身に呼び込んだとされ、後に自殺とも噂された。

    翌日より体調を崩しコレラ感染と診断され、11月6日午前3時、帰らぬ人となった。
    11月18日。悲愴交響曲は名指揮者ナプラヴニックにより追悼演奏された。
    その際に追悼の意味を込めて第4楽章を自筆稿のアンダンテからアダージョに書き換えて演奏し、それが今日まで残っているというエピソードもある。

  2. 自殺説

    チャイコフスキーは躁うつ病と同性愛者だった。

    死の少し前、彼はステンボルク・トゥルモル公爵の甥が好きになるが、公爵はそのことを皇帝に告訴する手紙を書いた。
    その訴状ははじめ副検事総長のヤコビに渡るが、彼は法律学校時代のチャイコフスキーの同級生であったことから、事件は複雑な方向へ向かった。

    当時告訴が正式に受理されると、結果は市民権剥奪とシベリア追放という措置が待っていた。ヤコビは悩んだあげく名誉裁判の実施を決意し、自宅で秘密の裁判を開く。
    真相を究明される中でチャイコフスキーは顔面を蒼白にして家を飛び出すが、残った者は協議を続け、誰にも知られない手段で自殺すべきと本人に宣告した。

    11月1日。名誉裁判に参加した一人が、新しいオペラの相談のためという理由でチャイコフスキーを訪ね毒物を届け、それを飲んだ翌日から発病し11月6日に亡くなった。

  3. 病気説

    チャイコフスキーの死因は、今もなお謎のままである。

    最近では「消化器系の疾患」という説が有力とされているが、確実なことはその死が1893年11月6日の夜明け前に訪れ、そして「悲愴」初演後のわずか9日あまりで亡くなったということである。

(Cb:M.K)

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