倉澤 杏菜 さん インタビュー(2)

(オケ)その後、どうされたのでしょうか。

(倉澤様)桐朋学園音楽大学の卒業試験と同時に、ベルリンへ入試を受けに行き、運良く国立ベルリン芸術大学に入学する事が出来ました。3年程勉強した後、師事していたファビオ・ビディーニ教授が、旧東側に位置する、国立ハンスアイスラー音楽大学に移る事になり、私もそれに伴って籍を移し、その後は、こちらの大学、大学院で勉強を続けました。両方の大学で勉強出来た事は、とてもラッキーだったと思っています。
桐朋時代は、朝始発の電車に乗って、朝練に行っていたのですが、練習するかと思いきや、大学前のコンビニでおでんを買って、仲間と部屋に集まり、おでんを食べながら、この曲のどこがいいとか、いろんな事を語り合っていました。夜練も同じです(笑)。本当に楽しかったですね。
ドイツに渡ってからは、ピアニストとしての狭き門を更に痛感し、振り落とされないよう、そしてなるべく上へいけるよう、本当に必死でした。この留学生活が、今後のピアニストとしての、活動の幅を決めると思っていましたので、楽しんだというよりは、いろいろなコンクールを受けたり、セミナーに出向いたり、そして自分と向き合う時間をとても大切にしました。こんな風に話すと、なんだか暗いですが・・(笑)。
もちろん、ベルリンで教授を囲み、クラスメイト達と深夜まで、ビール片手に語り合った事は大事な思い出ですし、沢山の国を訪れ、新しい景色を見、いろいろな人々に出逢い、笑って、泣いた記憶は、今でも鮮明にビデオのように、頭の中で流れ、それは心の支えとなっています。
昨年、ベルリンコンチェルトハウス管弦楽団と、ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲を共演させて頂きました。そして、今年に入ってから、ベルリン交響楽団と、憧れであったベルリンフィルハーモニー大ホールの舞台で、2度、共演をさせて頂く機会に恵まれました。





(オケ)そのことは、指揮者の田代先生がライブCDを聴いて「すごく上手い演奏だった。」とおっしゃっていました。

(倉澤様)それはとても光栄です。嬉しいです!ありがとうございます。


(オケ)最近は、相模原への思いが強くなったとか・・。 


(倉澤様)海外生活を経て、そして年を重ねるごとに、地元、相模原への特別な気持ちというのは、とても大きなものになり、とても大切な場所になりました。
大学院を卒業し、更に演奏活動にも力を入れていくなかで、やはり地元相模原で、演奏で相模原に貢献できたらと、考えていました。故郷は、どこよりも大切な場所です。





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